・上手い絵を描こうとしていると、筆が止まってしまう
表題の通りです。そういうことが最近まで続いていました。上手い絵とうのは客観的に上手い絵、XなどのTLに流れてくる、あの上手い絵みたいな絵、1万いいね!とかを得ている、あの上手い絵です。
いまや「少し歩けば神絵師にあたる」と誰かが言っていましたが、上手い絵を描く人は本当にたくさんいます。Xのポストだけでなくpixivでも講座動画、ブログでも、そういうのを見かける機会は本当に多くなりました。みなさんもそういうのをよく見ていると思います。そういう絵を見ると、あらためて、自分なんか描く価値はないな、居場所もないな。そう感じてしまいます。じゃあ絵を描いてダメなのかというとそういうワケでもない。しかし描いたところで、一生涯努力しても、そういう絵にたどりつけることはないな。そういう風に感じます。
音楽などでも演奏の上手いのが好きでよく聞くのですが、しかしながら絵にも言えることだと思いますが、よく聞くのは、好んで聞くのは、そういうのではなくて、昔大学時代に聞いていた、懐メロだったりするんですよね。もちろん曲としては成立しているし、演奏もそこそこ上手い。しかし演奏技術が飛び抜けてうまいものが、特別その技術分愛されているかというと、そういうこともないなということに気がつきます。
・絵の“味”
ここで僕が問題にしているのは、絵の“味”のようなものです。町中華を食べてうまいと感じる。技術的には高級感はないし、大衆店でこなれた味ですけど、やっぱりこの味が好き。そういうことってありますよね。演奏的には下手だけど、昔の若い頃の、飢えてつよくなにかを訴えている。そういう演奏が好きでリピートしてしまう。そういうことってあると思います。絵のうまさがすべてを決するならば、美大や専門学校、あるいは独学でスキルのバカ高いひとの独断場になっているはずで、僕たちに入り込む隙間なんてどこにもない。しかし、絵は自由、好きな人が好きなように描いていいのです。そして、その中に、技術的に味のある、独特のよさのある、また食べたくなる味、また聞きたくなる音、その人にしかだせない独特の良さをもった絵があるのですね。
それ追いかけていって、精進していく方がいいのではないか。そういう風に認識を改めるご縁に恵まれました。
・「よい絵」の“絶対的回答”がどこかにあるのではない
考えてみると、哲学的に反省してみても、絶対的によい絵がどこかに存在しているわけではない。いい絵の判断基準はその人その人の主観の中にあり、人の数だけ、よい絵があるのですね。もちろんある程度の技術の修練や勉強によって、絵の普遍的な良さみたいなものにたどりつくことがあって、それでいいねの差が出てくることもあるのですが、基本的に絶対的な「よい絵」の回答がどこかにあるとは考えない方がよい。そんな答え、学校の勉強みたいな先生がテストで用意した回答のようなものがあって、その答え合わせをするような、そういうもの(「絶対的にいい絵」)はどこにも存在しない。むしろ人の数だけ、好きな絵、いい絵がある。よいと判断するのはその人の主観であって、見え方なのですね。そういう風に考えてみる。ああ、うまい絵を目指すんじゃないんだ。もちろん技術的に向上はしていくけれど、いい絵を目指すんだ、町中華みたいな味のある、また見たい、下手だけどまたみたいと思うような絵を描くんだ・・・。そう思う。そこに活路がある・・・。そういう風に思った方が気が楽だし、絵が描けるのですね。そういう感情があることに気がつきました。
認識を改めて、いい感じの絵を描こう、“いい絵”だと自分が思う絵を描こう。そう思って、自分の感覚を信頼して作画していくと、楽しみが増し、作画がはかどっていく。そういう気持ちがあることに気がつきました。
・“いい絵”は、誰かの胸に届き、永遠の生命を得る
絶対的な、テストの回答で「いい絵を答えなさい=答え:コレ」みたいな回答は、人生にも絵にもない・・・。よい絵は一人一人違う。もちろん普遍的な絵の技術の向上をめがけていくことは大事ですが、だからこそ、自分にしか描けないもの、自分の感覚にもまた正当性があるし、ヒットする可能性があるといことですね。そこを信頼してやればよい。そのほうがズッとのびのびと、いい絵が描けるのです。不思議なものですね。
自分の感覚も誰かの胸に届くはずだと思って、自分の感覚を信頼して、描いていく。「絶対的な絵の正解」はない・・・。そこから離れることが、本当に楽しく作画していく上で大事なのだなと思いました。