今回は、親の反対について書こうと思います。創作を志していると、その家庭によりますが、親から反対されるということがあると思います。そのことをキッカケとして親との関係性を見直すことにつながることもあります。創作活動に協力的な親もいるとは思いますが、そうでない場合も少なくない。そういうときにどう考えたらいいのか。私見を述べてみました。
- ・何に命(時間・体力・精神力など)をかけるのか
- ・親の価値観と衝突
- ・自己疎外感
- ・「自分の使命」をハッキリさせることによって、“軸”が定まり、守るべきものがわかる
- ・親(の価値観)を相対化する
- ・親と対立的な思想を持ったとしても、親をないがしろにしない
- ・まとめ
・何に命(時間・体力・精神力など)をかけるのか
僕の場合、創作に関する気持ちは最初はぼんやりとしたものでしたが、潜在的には“軸”として確固たるものがある・・・。そういう感じの人でした。そして書いていきたい内容は自己表現、つまり見えている世界、自分の書きたいもの、描写したいもの、思うこと、考えたことです。それらを書いていくだけで作品になっていくし、創作になっていく・・・。そういうタイプの書き手でした。世の中には職業作家がいて、読者の需要を見極めて、それにそってうまく波乗りしていくように、文章を書いたり絵を描いたりしていける人がいます。まあそういうのは才能というか、ある種魅力的なスキルのようにも思われますが、創作が金儲けの手段に成り下がってしまう・・・。そういう傾向が見え隠れします。僕にとってはそういうのはできたらいいけど、ある種どうでもよいことのように思われました。
関心のあることは「自己表現」、時流とか流行、トレンドがどっちをむいているのかということはどちらでもよろしい。それよりも、自分の思っていること、考えていることを表現したい・・・。そういうものです。社会人となるとき、就職するときに悩みましたが、「創作を捨てよう、表現活動を辞めよう」と思ったことは一度もありませんでした。それは自分の中にハッキリとした“軸”があったからです。最初のうちはぼんやりしていましたが、年齢を経ていくにつれてハッキリしていくものでした。またネットの発達という点も大きいです。
ネットインフラが整備されることによってSNSのような交流サービスが開発・発展し、適度な距離感の人付き合いが可能になりました。いいねやリポスト、高評価ボタンなどの文化ですね。どちらかというと自分は、リアルな人付き合いが苦手でした。それに、もっと開かれた場所で自分の意見とか創作物を問うようにしたかった。なので、ネット空間のような開かれた批評空間みたいなものを求めていたのですね。
90年代や2000年代前半の空間というのは、僕にとって非常に過ごしにくかったと言えます。いまのようなネット空間のほうが、コミュニケーションにおいて通気性もよく、円滑に生活・活動していける・・・。そのように感じています。
「ネットの中でならば、創作していけそうだ・・・」。創作を志し、ネット環境の発達というところ。その二つがあいまって、自身の活動環境が整っていく。そのことはとても魅力的で、自分らしく活動できるように感じました。流行やトレンドよりも「自己表現」・・・。それが自分の“軸”になります。
大学を卒業してから社会人として働いていく中で、ネットの環境が徐々に現在のような状況に近づいていって、腰を据えて活動できるようになっていった。ファイルのDLスピードも速いし、動画をYouTubeでみるのもサクサクできるようになる。ブログサービスも無料で使え、まとまった文章をしたためていくことも可能である。そういった環境の中で、会社勤めをしながら創作と両輪でやっていきました。
・親の価値観と衝突
そのときにぶつかったのが「親」でした。うちの家庭はとくに両親に学問があるわけでも無く、僕が勉強をしたり創作をやっていこうとすると、ことある毎にぶつかってきました。
うちは母親がメインで子育てをし、父親はそれにほとんど口を出さずに仕事をやり、残りの時間は趣味を追いかけているという感じでした。
ところがたまに口を出してくる。
そのときに僕の方は思うこともあり話をしようとするのですが、父に理論立てて話をしたところ、「屁理屈だろ」と一蹴。そのことで父には「言語がほとんど通じない」という強い印象を持ちました。僕には僕の言い分がある。そして親には親の見方があるのですが、その点がかなり食い違っていた。
右と左ほど違っていたのかもしれません。
そのことがあってから、父とは、言語を通した真剣な話や、議論をしようという気がなくなりました。
で、母親とは話をよくしたのですが、母は母で問題がありました。自分を方向付けるということがなく、方針を指し示すという感じでは無く、徹底した受け身の姿勢の人なのですね。もちろん強く怒ったり、自己主張もしたりするのですけど、方向性を指し示して、「さあそこに向けて進んでいこう」というようにするタイプではぜんぜん無かった。厳しい言葉や強い口調で語っては来るけれども、女だからというところもあると思いますが、引っ張っていくタイプでは無かった。
そのためか、基本的に何をしていったらいいかは親の方からは提示されない。それで自分で決めていくことになるのですが、創作はまだぼんやりとした認識の向こう側にある状態で、何をしたらいいか分からないし、自信が無い。「自己否定の心」が強く、自己犠牲や自分のことをないがしろにして、人のことを考えている・・・。自分に無理をさせてでも、人のことを優先させる・・・。自己犠牲のカタマリのような人だったのですね。
自分で自分を否定し、自尊感情、今で言う「自己肯定感」はとても低い。そして父との方向性は右と左ほど逆。父と母は仲が良かったので、母親とも真逆。そういうふうにして会話がかみ合わず、根本的な考え方がズレている。そのため、肝心なところでよく話す母は、自分のことを(母自身の感覚と異なるので)、ことあるごとに「否定」してくるように感じる。そして自分の内部にも、「自己否定・自己犠牲の心」を飼い慣らしている・・・。そのように“二重否定”といった感覚で、「自信」というものが、ほとんど育っていかない。
「自分には能力がある!」。国立大学を卒業し、勉強はまあまあできる。スポーツもできないわけではない。創作技術にも、まずまず長けている。誇れるところはたくさんあるはずなのですが、その能力に比較して、自信がない。自己評価・自尊心・自己肯定感が低く、極度に自分に自信が無い。そういうことがありました。
もちろん家庭崩壊していたとかそういうのではないのですが、ある一定ラインまでいくと、自尊心の水準が上がらないまま、自信が無いため、強く創作で食っていこうと思う!というようなことも言えない。だから、後述するように、本来不本意であるはずの派遣やバイト、工場勤務をせざるをえませんでした。そういう日々が長く続きました。そしてその否定は創作にも、当然ながら向いていく。
仕事の話になると、母は「そんなもので食べていけるはずが無い」「(創作がお金にならないなら、)何でもやれるだけやってみなさい」という。今になって分かるのですが、その言葉には、ほとんど何の“考え”もなく、ただ口からこぼれた言葉をつないでいるだけなのです。母は方向付けができず、言われたことをこなすのが得意な人なので。僕の方は自分に自信が無く、そういう自分を責めてもいた。そのような状態なので、母の言葉に反論をおけず、そのまま信じてやっていました。
このころまでは、まだ親も元気で、親のいうことが「絶対的な正解」とまではいかないまでも、とてもそれに近い感覚=「強力な“確度”を持った言葉」、「真理」のような言葉として、自分は解釈していました。反論できないので、通った方の意見、声の大きい親の意見が最終的に通ってしまう。そうなるとそれは、家庭内で真理のようになる家だったので、少なくとも僕はそのように解釈していたので、「じゃあそうするしかないか」と思い、従っていました。
実際、いろいろなことをやってみました。正社員になっていたこともあるし、自分が大学で学んだこととはぜんぜん関係ない派遣・契約社員も経験、工場勤務などもやりました。母が、「なんでもやりなさい」と言っていた言葉に従っていたのです。お金のためですね。しかし、自分の中にはどうにもならないわだかまり、心のもやもやが残っていた。「なんでこんな作業をやらないといけないんだ?」いわゆる、マルクスの言う「疎外」が起こってくる。
・自己疎外感
wikiによれば、マルクスの言う疎外とは、
「人間の主体的活動であり、社会生活の普遍的基礎をなす労働過程とその生産物は、利潤追求の手段となり、人間が労働力という商品となって資本のもとに従属し、ものを作る主人であることが失われていく。また機械制大工業の発達は、労働をますます単純労働の繰り返しに変え、機械に支配されることによって機械を操縦する主人であることが失われ、疎外感を増大させる。こうしたなかで、賃金労働者は自分自身を疎外(支配)するもの(資本)を再生産する。資本はますます労働者、人間にとって外的・敵対的なもの、「人間疎外」となっていく。」(強調点:引用者)
この流れでいうと、いわゆる労働力も市場原理にさらされることになり、工場などでは人間も交換可能な匿名性の高い“交換部品”のように扱われる。機械を作ったはずの人間が、逆に資本に主体性を奪取させられ、資本に隷属するような状態になる。
とくに工場勤務の時は、そういう感じでした。
そのころはマルクスを知らず、漠然と「資本主義って何となくおかしいな」、という微妙な感覚を抱えたまま暮らしていたのですが、幼い頃、1991年のソ連崩壊によって事実上社会主義は崩壊した。その理想形態である共産主義も、そこで終わった。そういう認識が自分の中にありました。マルクス主義は過去の思想になった・・・。何も知らないまま、そういう認識しかありませんでした。
しかし今勉強してみると、まるで自分の人生を見ているような、ピタリと工場労働をしていたときに自分が感じていたことを、マルクスが語ってくれているように感じたのですよね。ああ、やっぱり“思想”には価値がある、哲学者や思想家が残した思想は、決して過去の遺物なのではなく、いまの自分に深く関係していることがあるのだ・・・。そのように意識を新たにしました。大学時代に勉強したフロイトと、そしてマルクスは、自分の中で現代思想におけるビック2ですね、まさに。
話を戻すと、自分が強い気持ちで志していた「創作」という領域は、“疎外”などというものとは、縁遠い世界。創作ほど、自分の主体性、想像力、「自分」というものを問い直す作業はないからです。ここで、僕が先ほど書いてきたことがつながってきます。
僕の表現は、「自己表現」だった。自分の考え、自分の世界の見え方、感じたこと、考えたこと、それらを表現するということ。それが自分の創作です。その点に、僕の力の大きな力点がかかっている。ということは、アルバイトや工場作業など、誰でも交換可能な労働力を提供するような、そういった作業を提供することが僕のやるべきことなのだろうか?絶対にそうではないはずだ。そのことに気づかされたのです。
マルクスの「人間疎外」ということを、僕は現実という切っ先の上で体験してきた。交換可能な労働力になって、“自分”という“主体”から遠く遠く、後退していく、遠ざかっていく・・・。ああ、マルクスをもっと早く勉強しておけば良かった、彼の言うとおりだ。マルクスの言葉を直接学んでいれば、資本主義の生活の中でもやもやしたものを抱えたまま、疑問を言葉できず、反論の言語を自らの手で握りつぶさずに済んだのに・・・。働いている自分が自己否定せず、きちんとした理論立てた反論・主張を持てたのに・・・。そう感じました。
お金はもらえて年収は高くなった。しかし心のもやもやは全然消えない。「いったいなんでこんなことをしているのだろう」。休日は稼いだお金で高価な買い物をして、稼いだお金は瞬時に無くなっていった。そしてまた、自分以外の“何か”に、自己を投射するだけの日々・・・。自分が自分から遠く離れていく。これが「疎外」か。そう理解したとき、ピッタリきました。ああ、ここは僕のいるべき場所では無いと。
・「自分の使命」をハッキリさせることによって、“軸”が定まり、守るべきものがわかる
そうなると、自分が守るべきものも定まってきます。自分にとって自己疎外に陥るような労働は、お金になったとしても、避けなければならない。自分が腐りダメになっていくだけです。
創作こそ、自分が時間を使うべきものであり、時間・体力・お金をかけていくものなのです。そのためには、その作業環境を守っていくということが大事になる。いままでお金のためとはいいながら、結局、自分をないがしろにし、自己否定の感情から、自分が大学で学んできたものとはまったく違う労働環境に身を浸してきました。
しかし、それはもう終わりにしよう。
そして自分が守るべきもの、それをハッキリさせて、自分の神経を使っていこう・・・。それが自尊心(self-esteem)を大切にするということだし、自己肯定感を爆上げして、人生を楽しく渡っていくコツなのだ・・・。そういう優先順位が生まれたのですね。
守るべきものがあるということは大事です。それは何に時間や体力や神経、精神力を使っていけばいいかという指標になります。いわゆる自分が価値を置いているもの・・・ということですね。自分を支え、ブレなくさせる“軸”になるのです。その価値を守って大切にし、はぐくんで、伸ばしていく、そこに人生の醍醐味があります。それがこの年齢になってようやく分かってきた・・・。そういう感じですね。
・親(の価値観)を相対化する
さて、ここで親との関係に話を戻します。
両親にも「価値観・思想」があり、そこをどう説得していくかが大事になります。親の言うことに従うのは美徳であり、孝養父母は仏教にも説かれているので大事ですが、そういう「親を大事にする」ということと、「親の思想は絶対に正しい」ということとは別の問題です。
親の思考・考えも、体験や経験で積み重ねてきたものであり、自分固有の経験から導かれた「特定の見方」にすぎない。特定の主観から導かれている偏った考え方をもっている。そういうことが分かれば、親を尊敬したり大事にしたりすることと、「親の思想が絶対的に正しい」と認めることとは必ずしも一致しない・・・。親の思想についても間違っているところがあれば、相対化し批判し、自分らしい思想を持つことが可能なのだ・・・。そう言えます。
自分の稼ぎをしっかりしていき、独立自立できていければ最高ですが、「なかなか結果がでない、お金が貯まっていかない」。そういう方もいるのではないでしょうか。僕は思いっきりその路線で、勤めていてもお金はすぐに使ってしまう。働いているとストレスで、買い物がしたくなる。そして、買いたいものを探しているうちに日は暮れていき、それだけで週休二日の休みは終わってしまう。貯蓄していくなどはほとんどできませんでした。そして創作物は売れていかない。同時期に始めた人で続いている人はみんな売れていっているのに、自分は他の人とやりたいことがぜんぜん違う。まったくお金にならない。
そうなると「創作」どころではない。日々の仕事に追われ、政治経済・思想・哲学・心理学・宗教学など、自分の本質的な関心事項についても、考えている余裕がぜんぜんない。制作に必要なことも、描きたい絵も、一枚描くとそれだけで数日の休みなどはあっさりと終わってしまう。好きな本をゆっくり選んでいる時間も無い。仕事と、それを維持していく活動に追われていってしまい、創作どころではなくなるのですね。
そういう“現実”が、派遣やアルバイトなどの非正規の労働にはついて回ります。
そして何らかの原因、風邪を引いたり何らかの体調の悪化などによって休まざるを得なくなったりすると、とたんに渋い顔をされる。社会保険にもはいれず、低い所得のまま、ちょっとでれない日があると「明日から来なくていいから」と、切り捨てられる。まるで、使い捨てのネジのように・・・。次、次の人員・・・と代替の人が入れ替わっていく・・・。そのような感じがします。
まさに「資本主義」という感じですが、このシステムの中で、自分はどこにも居場所がないようにも感じられました。マルクスも生涯お金がなく、盟友エンゲルスに金の無心をしながら著作を書き続けたと言われていますが、マルクスほどの天才がなぜ当時の社会構造の中で、めぐまれなかったのか。そういうことに思いをめぐらせるときに、私たちは考えなければならない。
親といえども、特定の観点をもった一個の人間に過ぎない。ならば、そのおかしいところを正していくことをし、自分なりの観点や考え方を持ってもいいのだ。そして、親の価値観でおかしいところは訂正し、自分の生き方を正していくことができる。そういう認識に達したのです。
「自分の使命」は何か。
それが分かったとき、その命の使いどころに従って、まず自分自身を肯定することが大事です。そして様々な障害があっても、そこを乗り越えて使命を果たしていく。親の考えがおかしいならば、それはいつでも変更可能なのだとあきらかに見て、思想を変える。そして自分の命の使いどころに沿った思考に、自分自身を変えていく。そういうことをやっていくと、スムーズに親との関係性を保ちながら、自分の道をしっかりと歩いて行くことが可能になります。
・親と対立的な思想を持ったとしても、親をないがしろにしない
自分の意見や考え・思想を持てというと、そういうのと真逆のものを持っている親とは対立しないといけないと思うかも知れませんが、そうではありません。親に対して歯向かって、いい例というのを僕はあまりみたことがない。もちろん親と言ってもいろいろな人がいますから、倫理・道徳的におかしなことを言ってくる人、法律に違反するようなことを平気で進めてくる親とは距離をとった方がいい。しかしそうでない場合には、両親には基本的に孝養に勤めておくのがいいです。それだけ親には世話になっているから。
親から適切に自我を分離できていない、あるいは、親の方が子離れできていない場合は、少々苦労してもそこから離れていく必要性はあると思います。しかし解釈の変更を加えて、自分の思想を自分が生きやすいように変えていくことと、親への感謝の心を忘れないということは矛盾しないのです。
念を押しておきたいと思いますが、親に対してつばを吐くような態度をとっていても、自分自身がダメになっていくだけです。なぜなら、そういう自分自身を、そういう思考ができるようになるまで、育ててくれたのが親だからです。「恩」は、“因を知る心”と書きますが、自分がそこまで育ってきたという事実がある限り、親に対してその原因を負っているところは大きい。苦労して育ててもらいましたからね。その事実に、自分でつばを吐きかけることになることになるからです。必然的に、それは“自滅への道”を進んでいくことにもなり得る・・・。そういうことを覚えておいてください。
親と衝突する。あるいは親も人間ですから、間違っているところ、悪いところもあるかもしれない。そういう時は親の思想も一つの解釈であり、ある特定の観点を強く打ち出しているものであるから、思想的には間違いもある。そこを訂正していくこと、誤りを修正して、自分の命の使いどころ・目標に従って、思想を変えていくことはあってもよい。
しかしそのことと、親をないがしろにし軽く扱ってもいい。ましてや親から義絶されるようなことをしていくというのは、まったく別問題です。それは自分自身を傷つけることになり、自滅するだけ。絶対によい結果にはなりません。この文章を読んでおられる方には、その辺をよく理解していただきたいなと思います。
・まとめ
両親のいうことをよく聞いてきた人ほど、親の価値観、考え方に反抗するのは大変です。しかし反対されたとき、それでも自分のやり方や進むべき道に正当性がある場合もある。そしてそれがあきらめきれないとき、あるいはあきらめる必要が無いとき、僕のように、反対方向にこそ自分の命のかけどころ=自己の真実がある時、反対意見をとっていってもいいのですね。
親とぶつかったときに、やっていいことは、両親の考え方というのも一つの思想や考え方、親の体験や経験から導き出され掴み取ってきたものだということです。もちろん参考になるところもありますが、年齢がたつにつれて、おかしいところも散見されてきます。そのときには視点(主観の視座・観点)を変えてみる。そして反対意見に屈するのではなく、もう一つの方向から、進むべき道を選び取っていく。そういうことを僕はやってきました。
それは平坦な道では無かった。社会の中で、現実という切っ先の上で、正規・非正規いろいろとやりながら苦しい思いをして、最終的に「この道はあきらめきれない!」と知らされ、今に至るような道でした。
自分の内側にだけ、真実がある、真理がある。
そういう状態にある時は、ひたすら自分を肯定していくのです。自己肯定感、自尊心、自己評価を高めて、ありのままの自分を愛していくのです。“ありのまま”と言っても、悪いことを思っても、やりたいことをやりたい放題やっていいということではありません。悪口を言いたくなったら、人のものを盗みたくなったら、言ってもいい、盗んでもいい、人を傷つけたいと思ったら傷つけてもいい・・・。悪をやりたくなったらやりたい放題やっていいのだ。そういう思想とはまったく違います。真逆のものです。
悪口を言えば、ブーメランのように自分も悪口を言われます。人のものを盗めば、必ず発覚して、警察のやっかいになることになります。人を傷つければ、自分もまた責められ、傷つけられるのです。この世はブーメランゲームであり、相手に投げたものが返ってくるのです。これがこの世の真理です。その道理をよく理解してください。
しかし、ときに人を傷つけたり、誹謗中傷したくなる。そういうのを思ってしまうのが、私なのです。実際にやらなくても、そういうことを“思う”自分だ・・・。それは事実であり真実です。
悪口をいいたくなったのに、「いや思っていない」というのはウソです。人を傷つけたくなる気持ちがあることを隠して、いやそんなことは悪いことだから一つも思っていません、というのはウソです。ときには人を傷つけたくなる、責めたくなる。そういう気持ちがあるのが自分なのです。そのありのままの自分を、そのまま認めていく・・・。そのことが大事なのです。
そのありのままの、悪口を言いたくなり、時に人を傷つけても平気でいる自分を発見しても、「そういうのを思うことがあるのが、私なのだ」と認めていくこと。善人の自分=理想の自分も、もちろんいます。しかし「悪い自分」も自分なのです。悪いことを実際にやりたい放題やるということはもちろんしないが、嫌な人に会わないといけないと思うと、チッと心で舌打ちする。そういう心があるというのは真実です。それを「んなこと思ってないよ・・・」というのはウソです。「舌打ちする心がある自分も、自分なのだ」とありのまま認めていく・・・。それが自己肯定感を育むことなのです。
自分の中に真実があるとき、親と闘ってもいいのです。しかしそれは親をないがしろにすることとは違います。親に感謝しつつ、孝養父母しながら、親の持っている観点も一つの“考え方”であって、「真理」ではない。そのことに気づいたとき、自分らしい道を歩いて行けると思います。そのときに大事なのが、自己肯定感です。
実際に悪口を言ったりはしないし、人を責めたり、盗んだりすることはしない。しかし、心で人を責めたくなる、傷つつけても平気じゃないかと思う心がある・・・。そういう心があるのに、“ない”ということは、自分にウソをついていることになります。「ああ、僕は身体や口では人を傷つけてはいない。でも心ではそういうことを思っている・・・。それが僕という人間なんだ・・・」。そうやって、善い自分も悪い自分も、ありのままの自分をまるごと肯定できたとき、自信を持って、自分だけの道を歩いて行くことができます。それが自尊感情、自己評価、自己肯定感を持つということです。
そのことが少しでも伝わればと思って、この文章を書きました。
自分の中に創作にかける強い気持ちがあって、そのことに十分な正当性があるとき、親と議論してみるのは有意義である。そのときに重要なことが自尊心であり、自己肯定感である。ありのままの自分を大事にし、いたわり、大切にする。率直な自分の思いを、よく把握し、主張するということです。
親の意見も、一つの意見でありあなたを大事に思っているからこそ反論もしてくるのですが、あくまでもその意見は、一つの見方であって、真理ではない。だから自分の意見があるときは反論してもいいのです。そして、繰り返しになりますが、あなたを大事に思って言ってくれていることですから、最終的に親と反対意見をとることになり議論をしても、親に対する感謝の気持ちは忘れないでいてほしい。親につばを吐きかけ、ないがしろにして、よかったという話を、僕はついぞ聞いたことがありません。そのことを、よく知っておいてほしいなと思います。