- ・自分の場合
- ・アニメやゲーム、マンガの世界(二次元の世界)こそが自分の唯一の理解者だと思っていた
- ・今言えること
- ・人自体を完全に好きにならなくてもいい。内心に広がるニンゲンに対する“認識”を変えればよい
- ・まとめ
・自分の場合
長い間、人があまり好きではありませんでした。まさに「ニンゲン」といった感じでしょうか。
アニメやゲームがいまほどの位置づけになく、まだまだ「オタク」の趣味と見られていた時代、そういうのを嗜好する人は一部の日陰者といったクラス内の位置づけでした。勉強がそこそこできたのでクラス内で重宝がられてもいましたが、勉強がそうでもない人は、クラス内でもカースト最底辺にいる人でした。
そういう中で、絵が好きだった自分は、アニメ・マンガを軽蔑してくる人に対し、あるいは自分を低く見てくる人に対し、無意識的に、あるいは意識的にも憎悪を募らせていました。陽キャばかりが優遇されていく世界に対し憤り、悲しみを感じ、深く憎んでいました。
加えて、そのオタクの仲間の中でよろしくやっていけばよかったのですが、そのオタクの仲間にも入っていけない感じでした。なんというか暗くて陰湿な感じがした。
まだインターネットがでてまもないWindows98くらいの位置づけだったので、ネットでやるのはメールくらいのものでしたので、いまのような動画はサクサク、SNSで友達作り、インスタで自分の日常をきらびやかに彩って・・・みたいなテンションではぜんぜんなかった。携帯(ガラケー)がようやくでてきてみんな喜んでいる感じの時代でした。
僕自身は、人付き合いをしていこうにも、「もっと開かれた場所で・・・」という志向性が強かったですね。ネット社会が、自分にとって最適だったのでしょう。そういう中で、どこにも理解者がいないと、憎しみばかりを「ニンゲン」に募らせていきました。陽キャの中にはもちろん、オタクの中も独特の、くぐもった「気持ち悪さ」を感じ入っていけない。
どこにも所属する居場所がない、いや自分こそ、“自分”の居場所なのではないか・・・。今思うと、そういう感覚の強い人だったと思います。
とにかく、ほかに気のあう人もおらず、トモダチはどこにもいない。そして悪いことに、人を強く憎んでいる。ニンゲンなんて大っ嫌い。有り体に言うと、そういう人でした。
・アニメやゲーム、マンガの世界(二次元の世界)こそが自分の唯一の理解者だと思っていた
表題の通りで、今もやっているこの領域だけが、自分の唯一の理解者だ・・・。そう思って、ここまで進んできました。それは今も変わっていません。ただヒトに関する認識だけが、かなり変化した感じです。
しかし当時はそれすらなく、自分の理解者はどこにもない。そして創作をしていければいい、あとは仕事なんかはどこで何をやっていてもいい・・・・。そう思っていました。しかし、働けば働くほど、職場を変われば変わるほど人的環境は劣悪になっていく・・・。そういう社会の仕組みに気づかされたのですね。これが、2004年くらいに大学を卒業して、そういう認識で働いていた15年ほどの間、非正規を繰り返しながら見てきた「現実」でした。
そういう中で、結局、ネットの中が一番自分がいやすい場所、、、消去法でそうなっていくことになりました。
「ネットこそが居場所だ」、と明確に認識していたワケではありませんが、そういう感覚の中、病気にもなり療養する中で、自分を見つめ直す期間が続きました。そして活動再開。やっぱりやっている途中は楽しかった。楽しいことがやりたい、この創作を続けていきたい・・・。
そして昨年ツクールMZを使用して、一年作品を作っていくなかで、SNS(旧Twitter)で暖かい励ましをいただきました。プレツクデーなどでたくさんのいいねやリツイートをもらうことで、SNS上での付き合い方を知ることができたのです。
いままで「あんた、悩みを相談したり、一緒にお酒飲んだりできる友達いないの?」と親に言われてきたような、濃密な関係性“だけ”を友人関係だと思ってきました。
しかし、そうではなかった。
SNSのようなゆる~いつながり方もできる・・・。そういう風に時代が変わってきたのですね。
そしていまや、結婚相手との出会いのキッカケで4人に一人(25%)がマッチングアプリ経由というデータも出てきています。なんとも自分のような人種には生きやすい時代になってしまいました。10~20代のころ、ネットのない時代、あっても薄い存在感しかなかった時代にはあり得なかった光景が広がっている・・・。時代なんてたとえ30年つづいても、終わるときはアッという間に終わるのだ・・・。そういうことを思い知らされた年月でした。
・今言えること
「人を嫌い、人間を憎んでいるとロクなことにならない」・・・。
これが自分の到達した結論です。人間は、他者の承認の中で、健全な自己イメージ(自我)を育てていきます。そしてその良質な自己イメージが、自分を、幸福な生へと導いていきます。その承認回路をどこかで確保しておかないと、けっきょく自分の力量をぜんぜん発揮できないことになります。自己イメージが健全に育っていかず、そのイメージ(自我肯定感)が低いままだと、目標に対する認識・達成意識も低いままで、低い自己イメージのまま生きていくことになります。それは貧しい、乏しい、寂しい、悲しい生を送ること、いわゆる「低い自己イメージ」のままに、「幸せになっちゃいけないんだ、悲しい人生こそが僕の生きゆく定め・・・」と不幸を囲った人生になっていてしまうのです。
人間は他人の承認によって、力を発揮できたりできなかったりする・・・。そういう生き物のようです。これが40数年生きてきて得られた、学んできたことの結論として言える、人間観です。世界の宗教に描かれている「神」が、信仰によって力を発揮するのと同じようなものと言えるでしょう。
だから、「承認」を断ってしまうと、結局、上手く力も発揮できず、孤独で、不幸な人生を送らないといけないのですね。SNSなどでもいいので、どこかで人とふれあい、承認される回路を持っておきましょう。
そして過ごしやすい場所で過ごしていく。
無理なく自分をだせる場所で承認を得ていくことで、肩肘はらない付き合いができるようになっていき、人に対する「憎しみ」も薄らいでいきます。
人間は適切な人間関係の中で、承認を得、自己イメージを形成し、それが高まっていくことで、より幸福な、健全な生を送れることになっていきます。だからこそ適切な承認関係は人間にとって、極めて大事なのです。
・人自体を完全に好きにならなくてもいい。内心に広がるニンゲンに対する“認識”を変えればよい
結局どこまで行っても、思春期に経験した、クラスの中で広がっていた“あの光景”、ニンゲンに対する感情を消せないでしょう。万物の霊長ということで、歴史を解釈するのも、それをどう理解するかも、結局は人間です。裏切って信頼感を粉々にするのも、そしてそれを暖めて生育するのも、結局は人間ということになるからです。だからこそそういうニンゲンに対し警戒感をもち、ある種の距離感を持って接したい・・・。そういう風に思うのはおかしな感覚とは言えないからです。
しかし承認のカギ、自己イメージの形成をするそのカギは、他者(自分以外の人間)が握っている。他者の承認にかかっている。だからこそ、自分の内心に広がる、人間に対する認識=心(これを仏教では識といいます)を変化させることが必要なのですね。
これを唯識といいます。
自分が見ている世界は、その一切を主観を通して見ていることはだれも否定できないと思います。つまり、サングラスをかけて世界を見ているということです。科学は客観的だと思われるかも知れませんが、微生物を見る顕微鏡でさえ、そのレンズを通してでないと対象は見れません。抽出されたデータを見るときでも、そのデータをどう解釈するか、という観点や解釈から自由ではいられないのです。だからこそ、主観=心(識)を通して私たちは世界を見ていることになります。
私たちが見ているすべては、自分の色眼鏡をはずしてありのままの対象を見ることは出来ないのです。それが唯識ということの意味です。唯識とは「唯だ、識のみ」ということで、一切のものが自分の心が生み出したもの、その心の投影と見ていく立ち位置をいいます。
話を戻すと、ニンゲンの有様は裏切ったり、健全な自己イメージの源泉になったりと、善くも悪くもある。だからそういうものを不確かなものとして、たとえば技術者のように、ロボットやコンピューターとだけ関わって生きていたい・・・。そういう風に距離をとる立場も、僕にはよく分かります。
しかしジャック・ラカンに「人間の欲望とは、他者の欲望である」という言葉があるように、他者は、自分の欲望を育て、自分自身を健全に高いレベルまで引き上げる、その源泉でもあるわけです。
だからこそ、自分がかけているサングラスの色を変えて、それが憎悪に染まったものであるならば、親しみに染まったものになるように、レンズの色を変える(自分の心=認識を変える)ということが大事です。対象は変えられないが、自分の心(認識)は変えられる、そういうことです。
このことはとても大事なことだと思うので、繰り返しいっておきたいと思います。ニンゲンに対する距離感はとりつつも、こちらの認識を変えていく。過ごしやすい場所、肩肘張らず無理なく接することができる、安全にレベル上げができる場所で人間関係を作っていき、安心感や信頼感を育んでいく・・・・。そういうことが大事だということですね。
・まとめ
RPGでいうとそういうこと。安心できる、低階層でレベルを上げ、高階層へとチャレンジしていく。自分が輝ける場所を自分で見つけ、次なる難易度の高い関係へと発展させていく・・・。「人生はロールプレイングゲーム」という堀井雄二さんの言葉がありますが、それは人間にとって最も大事な自己イメージ、自我、自己肯定感にも言えると思います。レベルの低いうち(自己肯定感の低いうち)は、無理せず、安定した安心感を得られやすい楽なところで無理せず、傷を癒やす。そしてある程度自尊感情が育ってきたところで、より難しい局面にも挑戦して行く。簡単なようで、意外とこういうことを示唆してくれるひとがいないのですね。
ぜひニンゲンに対する距離感は変えないまま、認識という色眼鏡の色を変えて、高い自己肯定感を持って行けるようになっていただきたいなと思います。自分が本当に輝いていられる場所で、呼吸していっていいのです。それは、人間が自由というものを知り、それを現実化していく中で獲得されていった、幸福に生きるための智慧なのです。
※ドラクエ3リメイクの難易度設定画面。まずは楽ちんプレイで、物語を楽しんでいこう。変にハードルを上げすぎない。人生も同じなのかも。。。