
・CG集進捗状況(立ち絵:1/1枚、基本CG:3.2/4枚)
ヒーロー2の売れ行きですが、やはり落ちていますね。発売後一ヶ月経つとガクッと売り上げが落ちるようです。僕の作品は二次創作ではなく、オリジナルのシリーズものの作品なので、独自の売れ方や、宣伝メディアでどこからお客さんが流入しているのかを研究して、都度改善していかないといけません。
・Xのほうは毎日更新しているものの、なぜかフォロワーが減るという、意味の分からない事態になっています。ポストの仕方がよくないのかな?
・ci-enのほうは作品が出た後から、継続して微増という感じです。
・こっちのブログの方はGoogleのコアアプデがあったあと、アクセス数は4割減ぐらいですかね。ダイレクト出来てくれる方が増えているので、アクセス数減は以前ほどではありませんが、それでも痛いですね。元に戻る?なら戻ってほしいです。
このように「認知」の拡大をちまちまと増やしているところです。
制作の方は、基本CG4枚中、3枚がおおかた終了し、現在は4枚目の描き込みにはいっています。下塗りまで仕上げています。今週18日までに終わらせるますが予定通り行きそうな気がしています。
あとは肝心の差分と、表紙、宣伝文句ですね。
・・・・やっぱり11月中旬~末日くらいまでかかっちゃうかな。
・ファンアート:0/1(可能ならばやる)
・YouTube立ち絵:0/1(可能ならばやる)
・総評
差分の出来によって、完成のメドが変わるところまで来ています。7割くらいまで今週末には終わるかな。
いままでCG集をどのように作っていくかを頭の中でいろいろとこねくり回して考えていましたが、期日を切り、作品の方向性を決めて、作品を実際に出すぞという決意を決めていく・・・。そうすることで出していけますね。
僕に必要なことは、リスクをとって、「これでいい」と判断を下して、その時点で最善だと思えるものを出していく・・・。
その繰り返しをやっていくことなのでした。
それが長い間できなかった。
まあ大きかったのは小説を出し、ゲーム制作をしたこと。それは一般向けの作業になりました。
創作のベクトルが「一般向けと成人向け」が混在していて、その欲求を解消する必要があり、それをやってはじめて、成人向け一本に絞って制作が可能になる・・・。
もっと言えば、そういう制作をして、作品発表をしていくというルーチンをしっかりと回していけるというところまで、制作体制を構築し、安心して制作できるように持っていく・・・。
そのような体制を制作以外のところでつくっていく・・・。
そういう仕組み・環境作りが必要だったなと思います。
・「覚悟」という言葉の、意味するもの
僕は「覚悟を決める」という言い方に疑問をもっています。覚悟という言葉を使った時点で、大きく何かを切り捨てている・・・そう思うからです。
精神分析の用語に、「抑圧されたものの回帰」というものがあります。抑圧された記憶・感情が、さまざな形をとって無意識的な行動として表れることをいいます。
不要だ、と切り捨てたものの中に、実は「捨ててはならないもの」がある。それがいろいろな形をとって、その人の元に回帰してくる・・・。
覚悟する、というのは「ある程度の批判を許容」したり、「不純物を切り捨てて・・・」という意味があります。
そういうものを引き受けるということを覚悟、といったりするのでしょうが、僕の人生からは、あまり縁がないようにも思われます。
自信がない。だから真理的なものにすがり、自信をもって生きていきたい。迷ったとき、確信がほしい。だから鮮やかに物事を断言してくれるものに惹かれる・・・。
若いとき、迷っているときほど、そうだと思います。
そういうときに、「覚悟を決めろ!」という言葉は、何か力強く感じます。そういう言葉を言う人のもとに、何か力強いものを感じ、そこに惹かれる人もいると思います。若いときの自分は自信が、喉から手が出るほどほしかったので、その傾向は非常に強かったです。
ですが鮮やかに物事を断言できる人は、いったいなにを確信しているのでしょう。
現象学といわれる哲学学派(の中でも特に突飛なもの)の中にも、似たような構造がみられます。「本質」が“真理”のように認識されてしまい、本質をおさえるということが真理を求める・真理に従う、迷いを通して混乱の中でその核を「わかった」と思うと、それが「真理」的な意味合いを帯び、“原理的”にその“本質”に従うようになる・・・。
ですが本当にそうでしょうか。「現実」はもっといろいろな要素が絡み合った、まだら色の様相をとっているように思われます。
「覚悟を決めろ」、「本質が大事だ」といい、物事を単純にとらえる傾向のある人の中には、そういう意味で、現実をシンプルに捉えすぎる傾向がある・・・。「認識」の面において、おおざっぱな点があるように思います。
僕はこのたとえが好きでよく使うのですが、削りすぎた鉛筆の芯は、鋭さはありますが、簡単にポキッと折れてしまいます。いわゆるタフさがなくなって、どんどん先細りし、弱い。簡単な衝撃でポキッと折れてしまう。
言語的に迷いや混乱の中をくぐり抜けていく中で、その核心にあるものがなんであるのか。そのコアのようなもの(本質)を見て取っていくことはある面において大事ではあると思いますが、それ以外のものを「不純物」として切り捨ててしまうのは、けっきょく、生きていくのに必要な肉付きまでもそぎ落としてしまうことにつながる・・・。
結局、そのような思考というのはある面での強さと引き換えに、莫大な犠牲と労力を背負うことになる・・・。また別種の「弱さ」も抱えることになる・・・。そのような例を、複数みてきました。
間口が広く、わかりやすい。明快さもある。だから人を惹きつける。しかし内部に入っていったときに、そういうことをしている集団・個人の中に、心の底からついていこうと思えるものは、いままでの人生経験の中で一つもありませんでした。
「覚悟」を決めて不純物を切り捨てていく・・・。そのようなことをする必要はあるのだろうか。人生、そういう覚悟を決めていくという瞬間が必ず必要になるのか・・・というと、僕は必ずしもそうではないと思う。本質を見て取っていくことは大事ですが、それ以外のものをおおなたをふるって切り捨ててしまうことで、本当に必要なものまで捨ててしまうことになる・・・。それは新しい「弱さ」を抱え込むことに他ならない。
僕は最後まで、「覚悟」という言葉には慎重にいきたいと思います。覚悟を決め、現実を単純にシンプル化することで偏った方向に解釈する・・・。その時点で、それは、極めて幻想的・・・、都合良く現実をみている認識につながることにもなるのではないでしょうか。




