闊達行雲の日記&レビュー

イラスト、小説、ゲームを作っています。

RPG進捗状況㉝

引き続き、RPG制作を進めています。

第五大陸、最後のイベント制作中

第五大陸も終盤に入っていることは前回の記事でも述べましたが、いまはその最後の塔ダンジョンのボス戦、ラストイベントを制作しています。9月中には間に合いそうにはありませんが、もう少しで内容的に完成します。これが終われば、いよいよ、最終決戦の地、最終章、の大陸へと移行することになります。イベント的には第四大陸でひたすら2ヶ月半ほどかけて作成したマテリアルがそのまま流用できる部分も多いため、それを使って、イベントの基礎となる内容を構築し、立ち絵表示・パーティクル表示・演出などをせっせと作成していっています。
このイベントにさしあたって絵が二枚ほど必要になってくるので、それを作画していこうというところに現状はなってきています。作画は大変ですが、第四大陸でひたすら描いていたのを考えると、ずいぶん分量的には軽くなってきています。最終大陸はとくに作画はせず、ラスボスは有料素材を使用して完成させようと思っているので、すいすいエディタでの作業だけで完結し終わっていくはずです(予定)。そうなると格段にスピードアップするので、本当に作業的にあと一歩のところまで来ました。
この作品ではほぼ頭の中で思い描いていた通りの展開が描けていて、作画も想像していたものを適宜配置できているので、頭の中で構想していたものがそのまま形になってきていて心地いいです。テンションがあがってくるというか、構想通りのものを作れ現実化できているという充実感・満足感があります。進捗報告ももうすぐ終わりが見えてきたなという感じです。

「これでいい」というラインを確立する

X(Twitter)で述べた内容についてブログの方でも書くといっていたので、その内容です。
他人に作品を見せるということはいまではネットの発達によって気軽にできるようになりましたし、SNSで急速にそのような環境が整備され、10数年前から、イラストやマンガ、CG、小説などを発表して他人に見せるということは本当に簡単にできるようになりました。しかしながら昭和生まれで、鉛筆(シャーペン)に大学ノートに描いていてネットもなかった時代に生まれ生活していた自分にとっては、この「他人に絵や作品などの創作物を見せる」ということが非常に恥ずかしく、また難しかった記憶があります。いまでも似たような人がいるかもしれません。今回はそういう「発表したいんだけど、人に見せるということが苦手で気恥ずかしい」という方を中心に、創作の考え方を提案できればなと思って文章を書きます。
自分の場合、とくに絵に関して顕著でいまでもその名残が残っていますが、人に絵や創作物を見せるときは、自分の中に「これなら見せられるだろう」というクオリティのラインが必ずあるように思います。そしてそれを満たしたものは発表できる。ところが、その基準が人のもの、つまり神絵師であったり、上手い人を基準にしていると、いつまでたっても自分の手がそのレベルに追いつかず、なかなか作品が発表できない・・・・。そのようなことがあります。
自分は長く創作に携わり、今年でトータルで13年、途中5年ほどお休みしたので実質8年ほど物作りに関わってきていますが、その状態がとても長く続きました。しかし最近になって自分の作品数の少なさに自覚が出てきて、これはなぜだろうかと考える内に、人とは違う自分のクセのようなものに気がつき始めたのです。それが「これでいい」というクオリティのラインを、自分の「内側」に持つということです。外側ではなく「内」にもつというところがポイントです。つまり自分自身で納得のいくラインを決める、線引きをするということなのですね。

人の理想や神絵師を気にしていても、いつまでたっても作品は完成しない

他人の目を意識し、客観的にも満足のいく作品作りに心がけていくことは大事ですが、それでいつまでたっても作品ができてこない場合は、また別の問題を検討する必要があります。クオリティのラインが「他者」にあったり、遙かに高い理想を目指し続けていると、いつまで経ってもそこにたどり着けません。そういうときは自分の中で満足する、「とりあえずこのレベルならいいかな」といえるラインを探して、そこを集中して掘り下げていくことが大切かと思います。
「そういう基準ってじゃあどうやったらできるの?」というと、僕の場合は、自分の「好きなこと」を集中してやっていったときにできていった気がします。
自分の「好きなこと」を深掘りするのですね。そうしていくと他人がどう思っていようと、「自分はこれが好き!」ということが見つかってきます。そこを深掘りしていくと、自分の好きな絵・好きな文体・好きなゲームというのが明確に定義づけられてきます。そうしたら、あとはその「好きなもの」を磨き抜いていけば、一定のクオリティラインを超えて提示できる、いわゆる他人にも見せられる作品作りが自然とできてきます。
ところがそのラインを「他人」に設定し、神絵師とかべらぼうに上手い人、他人の理想に定位していたりすると、いつまでたっても“自分の好き”に到達できず、作品化して発表できません。その「他人」というのは、自分で設定した「決してたどり着けない“憧れ”のようなもの」になっていることが多く、砂漠の中で、決してたどり着けない蜃気楼のオアシスに向けて歩いているような状態になりやすいのです。それではいけませんよね。
「作品化してもいいよ」とゴーサインを出すのはあくまでも自分であって、人ではない。ならば自分の「好きのライン」を集中して深掘りしていく。「何をしているときに楽しいと感じるか」、「何が好きな絵か」、「上手い絵ではなく、“好きな絵”は何だろう?」、「他人がどうこう言う前に、自分はこの文体・絵・ゲームが好きだ」そういえるものを探り追い求めていく。それが『好きを深掘りしていく』という作業ですね。そういうことをやっていくと、自分の中に「好き」のラインができてきます。「こうしているときが好き」、「こういうことをやっているときが好き」、「こういう状態が好き」という感覚ですね。
そういう状態がわかると日常生活の中でも、自然と好きなもの・楽しいことを追い求めていくようになります。そうしたら絵についても「好きな絵柄ってこれ」、「自分の書きたいものはこれ」と自分の欲求の志向性がはっきりとしてきて、自分の行くべき道・進むべき方向がわかってきます。
そうなると、作品についても自分で善し悪しを決めれるようになってきて、「これでいい」「これを他人に見せたい」というラインが自然と形成されてくるのですよね。

好きな事をして生きる

YouTuberをはじめとして10年ほど前から「好きなことで生きていく」という言葉が提唱されそこそこ浸透していますが、自分もそういう生き方をしたい。そうなったときは、自分が「何をしているときに一番幸せか」、「何が一番好きか」。それを追求し、それを体現できる生き方をしてみるといいのではないでしょうか。
作品制作・創作に引きつけていえば、まず自分の中に「これでいい」という自分を許せるラインをもつこと。「これなら人に見せられる」というクオリティラインを明確にすることが必要です。それがあれば勝手に作品を生み出していくことができます。
ではどうやってそれは形成されていくのか、といえば、「自分の好きなこと・楽しいこと」を日常から追求していく中で形成されていくように思います。
今の自分で言えば好きなもの、見てきた・経験してきた中で楽しい、心地よいと感じたものを絵にしていきます(もちろん人に迷惑をかけるようなことをするのは論の外)。そういうことをやっていると、例えば講座系サイトでいわれているようなことをすべて教科書的にやっても結果が出ないことがある事が分かります。そういうのは“自分”というものがなくて、人の基準で、他人の経験談をまるで自分のことのように語る人がいるように、「自分の好きを掘り下げる経験にならない」のですよね。人の真似や教科書に書いていることをそのまま答える優等生にはなれても、いつまでたっても自分の満足のいく絵柄、文章にはなっていかない。いつも他人の理想の中に、どこにも存在しない「正解」や「答え」を探そうとしている。本当の答えは外側ではなく“内側”にあるのであり、自分の“好き”をもっと追求すべきなのに、他人の理想や、どこにも存在しない「正解」の話ばかりしている。そうしている内は、本当に好きなことで生きていくこともできず、結果も出ないままです。
自分の中に「これでよい」、「これなら他人に見せられる」というラインを見つけ出し世に問うていくこと。それが創作しながら生きていくことだと思います。そのようなラインを見いだすには、まず作画や文章を書く場面で、自分の好きな絵柄・塗り・文体・ゲームを追求していくこと。もっといえば日常生活のいろんな瞬間の中で、自分の「好き」を暖め、大事にしていくこと。そうしていくことから他人と向き合う自分基準・自分のラインというものが掴めてくるように思います。だから神絵師やすごいスキルをもった人や実績のある人の作画や講座を見て「すごいな~」とポケーッとしてばかりいてはいかんということですね。
そんなことをする時間があったら、創作者ならば「自分の好きな絵・好きな文章・好きなゲーム」を暖め大事にして、“自分の好き”と向き合った方がいいということですね。僕の周囲には、人のすごいところをまるで自分の凄さのように語る人が多くいます。そういうのを見て最初は真似をしていたのですが、だんだん「この人は『憧れ』が強いばかりで、実際はぜんぜんたいしたことないな」と気づき、距離を置くようになりました。憧れを超えるには、憧れを捨てないといけないのですね。人の目や、他人の理想の中で生きている内は、その枠から出られませんし、「自分自身の好き」がないがしろになっていますから、結局自分のことを軽視しているわけです。
そうではなくて、自分の欲求、付き合う時間が一番長い自分自身の“好き”とか“欲求”を大事にしてあげて下さい。
それができてから学びを深めていく意味で、他人の筆致や絵柄を研究してもいい。しかし自分の好きを暖め大事にして、自分をないがしろにすることなく・軽視せず、大事にすることが一番だと思います。

まとめ

「他人の目が恥ずかしい、自分に自信がない」。そういう気持ちが強くあってなかなか作品数が増えない。そういう状況に、過去、自分はあったように思います。あるいは、他人の理想や憧れを追いかけることばかりして、他人の理想の中で生きている。そういう認識も強かったです。しかし創作の場所でさえ、自分を出せないとなれば、いったい自分はどこで生きればいいのでしょうか。そういう人は、きっと日常生活でも、窮屈な生き方、「他人・他人・・・」と、まるで人の視線や理想や憧れの中で生きているような気がします。
せめて制作の現場でだけは“自分が”好きだと思うことを大事にしてあげてほしいと思うのです。

創作の場だけは、自分の好きなものを好きなように表現してよい(もちろんルールを守ってですが)。そうしていると制作の中で「これなら他人に見せてもよい」、「これでいい」というラインが少しずつですが形成されてきます。
他人に見せたら創作物を批判されそうだという場合は、まず自分の手元だけで表現していけばいい。そしてこれなら・・・と思うものを少しずつ小出しにしていく。そうしていくなかで、出しても問題ないという経験を積んでいくと、少しずつ“自分の好き”を大事にできるようになってきて、自信がついてきます。そうやってステップアップしていけば、「作品をこれなら出してもいい」というラインを明確に引けるようになってきて、作品を徐々に発表できるようになって来ると思います。
今回はおもに制作者・創作者の方に向けて書きましたが、人生においても同じようなことが言えるような気がします。創作に行き詰まったり作品が出せないと言う場合、まず自分の“好き”を少しずつでも暖めるという作業をしてみてください。きっと“次”に繋がる何かが見えてくると思いますよ😉