闊達行雲の日記&レビュー

イラスト、小説、ゲームを作っています。

活動前期(2010年代)を振り返って②

 

こんにちわ、闊達行雲です。

 

前回までの記事では作品を発表し、恥ずかしがりの自分が、表現に向かう情動を活かして、いよいよ制作活動に入っていく。そのはじめのはじめのところを話しました。今回はその続き、ブログを開始していくその2~3年目を書いていきたいと思います。いまでもブログを書くのは好きですが、当時も少しずつ自己を開陳していくように、勇躍して文章に向かっていきます。その辺をもっと突き詰めて、「文章」で小説作品を、しっかりしたものを一個でも書けていると、心理的に自分のこともよく分析できて、かなりいまに近いテンションで作品制作ができように導かれていったと思いますが、当時としてはそこまで深く自分のことが分かるわけもなく、ガムシャラにやっている。そんな感じでした。

 

・混迷を極めた制作状況

さて、DLsiteで作品を発表すると使用できるDLsiteブログを使って、作品紹介、イラスト紹介という体(てい)をとった、ブログを書いていくことになります。アクセス数は貧弱で、あまり一般の人には見られていなかったように思いますね。そして「理想とする想定している絵描き」がジャンプ黄金期の大作家とかしかみていないため、自分の等身大の姿なんて、てんで分かっていない。うぬぼれというか、自信のなさと、ケタ外れに誇大な理想の自己感・・その両方をもっていました。不安定な精神状態でした。そして、あまり人としゃべるのも好きではなく、恥ずかしがりで自分の本心を人に語ることが苦手でもあったので、他者を介した自我形成、それがすごく未熟な状態でした。

どんどん内向的になり、しかし欠如の領域(ラカンのいう象徴界や想像界)では、作品制作の分野では自分はすごいものが作れるのだ、という誇大感のみが大きく葉を茂らせ、枝を伸ばしていきます。

ブログでは、自分がいかにこれまでの期間、たくさんのアニメやゲーム、同人作品や音楽を消化してきたかを指し示すかのように、それらの紹介を中心に行っていきました。ネットの黎明と、その場で活動する同人作家たちの嗜好しているアニメやゲームが自分のエロス(喜び)を代弁するものとして光り輝いて見えたのですね。それらのアニメ(ウィッチブレイドやブレスレイター、ギアスや戦場のヴァルキュリア、鉄のラインバレルなど)、ゲーム(ゼノサーガシリーズ、シャドウハーツシリーズ、アトラスのゲーム群、ヴァルキリープロファイルなど)を知っている“知識”を、素直にすべてを開陳して書き記そうとしました。そうすることで、自己を“追認”する。いわゆる浮き足立っていたり、その場の義務感や強い感情に押し出されるようにして過ごしているので、それを文章を書いて、何が起こっていたのかをあらためて書き出して、把握する・・・。そういう作業が必須でした。

僕の根底には、安心感がなくて、常に心が不安に覆われている。安心感が一貫して流れていかず、ブツッブツッと途切れている。そういう感覚があります。例えば、ちょうどこんなことがありました。

一人暮らしの部屋から実家に帰ったときのこと。飼い犬の散歩をしに実家の近所を回っていたときのことです。昔見た実家の近所の風景がブツッブツッと途切れていて、地理的に把握できないということがありました。そういえば実家の周囲を本格的に散歩したこともなかったのですね。しかしどこかで見た景色ではあった。そこが地理的に途切れ途切れにしか把握されておらず、分断されている。

その後何回も歩くことで、風景は統合されていきましたが、まとまりを持ったカタマリとして景色をとらえることができたのは最近になってからなのですね。心理的に、風景の印象が、途切れ途切れになって続いている。この道の先には何があっただろう、この曲がり角を曲がるとどんな土地が開けているのかわからない。実家までの道と近所の空間の物理的なつながりが、まっすぐ把握できていない。そういう感じですね。心の安心感は実家に例えられると思いますが、そこまでの道のりがブツブツと途切れていて、一貫していない、地理的に一続きの道となってつながっていない。曲がり角の向こうは、異世界・異空間と繋がっていて、そこを妄想で道のりを補完している。そういう状態になっていました。

安心感という土台が、しばらく続いたかと思うとブツッと途切れ、また開始されたかと思うと、またブツッと切れる。そういう心理状態で、「安心感」が続かず、心の安定した土台が築けていかない。そういう心の状態でした。

情動にまかせて、義務感や切迫する激情の波に翻弄されていると、いつしか自分の生きている空間さえ、正確に把握できなくなるのですね。そのことが知らされて参ります。

・許可が欲しかった

昔の絵を見ると、技術的に下手だったということもあるとは思いますが、絵から示されるものを心理学的に分析してみて気づくのは、絵がガクガクして線画が汚い。「このまま作品制作していていいんだろうか」「こういう表現を描いてもいいんだろうか」という不安感が強く、誰かに許可してほしい、「それでいい」と言ってほしい。しかし身近でそんな人はどこにもいない。どこかに自分の表現欲求に「許可」をくれる人はいないか・・・。そんな人を強く探し求めている。そんな心理状態でした。

表現をすること、同人活動で生きていきたい。確信は持てないけれど、そういう思いはぼんやりと感じる。そして制作活動を行ってみた。ありのままに描いて作品も出してみた。しかしそのさきに入っていくと、どうも描きたいもの、表現したいものがいろいろ出てきて、やっていいこととよくないことの区別がつかない。これは一体どうなっているんだろうとブログなどで分析したり、紙に書き出してみるけれども、肝心のその内容・分析が正解なのかどうなのか自信がない。誰かに許可してほしい、許諾してほしい。そういう気持ちでした。古い言葉になるかも知れませんが、メンター(指導者・助言者)みたいなのを探していたんだと思います。許可が得られると、描ける。描いてもいいんだという許しが得られる。

他人との交流の中で、自分をよく知ることができない。自分が出せない。しかし自我とは、他人との交流の中で、自分の欲求を意見として発言する。そして人から承認を受けとる。その中で自己感は形成されてきますが、それが僕の場合、薄弱である。自分で自己分析をする、といっても、その“自分”に自信がない。だから、自分で自分の分析を信じられない。人に認めてほしい・・・。優秀な指導者・導き手に、善導してほしい・・・。よき人生の指導者の下で、助言者の下で、自分の創作を大きな華のように開花させていきたい・・・。初期の頃の僕の欲求って、煎じ詰めるとこういうものだったと思います。

心理学や哲学の知識がけっこうあり、そこそこ勉強にも励んできたため、簡単で単純なアドバイスにはぜんぜん説得されない。どこかに知的で、自分を善導してくれる、善き方向に導いてくれる人生の師はいないものか。そういうのが欲しかったのですね。

人とコミュニケーションをとるのが苦手で、でも自分をだしていきたいと言う人に多いような気がするわね。

・苦難の季節を超えて

僕がこの文章を書いているのも、初期の頃、本当に苦労しました。そして混沌としたカオスな心境の中で、なんとか自分を善き方向に導いてくれる先生・指導者・助言者(メンター)を求めていました。そして紆余曲折を経て、一時的に制作を休止し、再び戻ってきました。その経験から、いま通算で14年、実質活動8年目というところまで長く活動できています。制作の成果という点では、まだまだですし、何か受賞歴や実績と呼べるようなものがあるわけではありませんが、上記のような自分の混迷の段階からは、大きく抜け出せた・・・。そのような感慨があります。

そしてその経験から、今度は自分がそのメンターになって、ささやかながら困っている方の力になりたいと思っております。

とくに僕の文章を読んでいただいて、世間的な講座動画やお悩み相談というところにいっても悩みは全然解決されない、創作をしていきたいんだけど、自分の認識とか自己分析に自信がない、直接会って話すよりも、文章で語ることにアドバンテージ(得意)がある、など、上の文章を読んで、僕と話してみたい、悩みを相談したいという方は、コメントをいただいたり、問い合わせで質問していただければ、対応したいと思っています。

自分が非常に苦しんで、とくに初期、ひどい思いを経験してきました。だからこそ似たような感覚を持っている人には、僕のような道を通ってほしくない。それが僕の願いです。僕のような道を通らなくても、スムーズに心理的な問題を解決して、制作活動に向き合っていただきたい・・・。切にそう願っています。

よく言われることですが、一人で悩むことは、道を大きく踏み外す可能性も秘めており、危険であることも確かです。なぜなら社会の中には、そういう人の悩みを利用して、悪意に接してくるメンターとは真逆の人種も存在するからです。いまは昔と比べて、そういう悩みを相談できる経路というのはわりと細く広くたくさんあるように思います。

僕のところがよければ、お話を聞いたり、率直な悩みをぶつけてもらうでもいいですので、ブログの問い合わせフォームやコメントで一言いただければ相談に乗ります。該当するなと思う方は、ご検討いただければと思います😄

 

文章を読んで共感いただけた方、悩んでいられる方の力になりたいと思っているわ。困っている方は、コメント・問い合わせを検討してみてね!

 

(続く)